武道とスポーツの境界線

日本女子柔道界の体罰問題に絡んで、下記のようなコラム記事
を見つけましたので、皆様の参考に供したいと思い、記述します。
賛同したからこそ、こうやって記述する事は私もほぼ同一見解
であると言うことです。


『改めて言うまでもないことですが、大前提として、私はスポー
ツに於ける体罰に反対です。
ていうか、スポーツに罰を持ち込むという発想自体が間違って
いると思ってもいます。
じゃ、なぜ反対なのか。


体罰くらってサッカーが、バスケットが、ゴルフがうまくなる
とは思わないから──
突き詰めると、この一点に尽きるわけです。


では、うまくなるのなら体罰はあっていいのか。
わたしの答はイエス、です。
殴られることが、罵られることが、自分の技量であったりチー
ム力の向上に確実につながるというのであれば、どうぞ殴って
ください、罵ってください。

勝ちたくて、強くなりたくてどうしようもない自分にさらなる
力を与えてくれるなら、ビンタだろうがグーだろうが言葉の暴
力だろうが、どうぞどうぞ。


メッシやコービー・ブライアントタイガー・ウッズも過酷な
体罰に耐えたからこそいまがあるっていうんなら、わたしは体
罰を認めます。


愛情なんかなくたっていい。うまくなれるなら。
勝てるなら。ハハッ。
もちろん、殴られてうまくなったサッカー選手なんかいなかっ
たし、これからもいるわけがない。


なので、体罰はくだらん。
無意味。卑怯。スポーツに体罰を持ち込む指導者には侮蔑を。
そう主張してもきました。


ただ、ずっと迷ってたし、いまも迷ってることがあります。
もともとはスポーツではなく武道だった柔道にも、完全なるス
ポーツの論理を持ち込んでいいものなのか。


以前、亡くなった格闘家について書きました。
殺人的で非科学的に見えた彼の練習は、しかし、本人に言わせ
ると必要なこと、だったのです。


なぜならば、空手とは痛みに耐える競技でもあるから──。
スポーツのトレーニングに慣れた人間の目からすると、彼がや
っているのは罰そのものでした。


柔道は、痛みに耐えなくていいのでしょうか。
メッシやブライアントやウッズが人生において一度もコーチか
体罰を食らったことがないのは確実ですが、過去に世界一に
なった日本の柔道家たちは、体罰を受けなかったのでしょうか。


受けなかったから、世界一になれたのでしょうか(ちなみに、
1月31日付の朝日新聞で、山下泰裕さんは「自分は指導者に恵
まれたために体罰は受けなかった」といった内容のコメントを
しています。意味深です)。


柔道がオリンピック競技になったのは、東京でのオリンピック
開催を機に、競技の国際化を意識した柔道関係者がそれを強く
望んだから、でもありました。


つまり、柔道はスポーツであると方向づけたのは、ほかならぬ
柔道関係者であったわけです。


である以上、反スポーツ的な体罰は許されないというのが当然
の流れ。
それはわかる。よーくわかる。


でも、そもそもは護身術であり武術だった競技を、欧米生まれ
のスポーツと同列に論じていいものなんでしょうか。

楽しいからやる。それがスポーツの根っこ。
ずっと言い続けてきたことです。
柔道って、剣道って、空手って、初めてやってみる子供にとっ
て楽しいことでしょうか。


スポーツは勝つから楽しい。
勝つことにムキになって、同じようにムキになってぶつかって
くる相手を倒したらなお楽しい。
勝利を目指す。
それこそがスポーツをやる上でのモチベーションでありエネル
ギー。


じゃあ、武道はどうなのか。勝利はもちろん大切ですが、それ
以上に、試練に立ち向かう姿勢であったり、苦境を打開する気
概のようなものが重要視されるのではないでしょうか。


だから、子供にとっては楽しくなくても、親がやらせる。将来
のために、やらせる。


柔道には受け身というものがあります。
初心者はたいてい、これから始めます。
サッカーとバスケットと草野球しかやったことのない人間から
すると、これ、ちょっと不思議です。


だって、受け身って、要は負け方の訓練でしょ。
いかに負けた際のダメージを少なくするか。
すべてのエネルギーを勝つために、あるいは負けないために振
り分けるのがスポーツの常識だとすると、これ、とんでもなく
イレギュラーなトレーニングだと思うのです。


同じ格闘技でも、欧米で生まれたものには「ガードの仕方」は
あっても「ノックダウンの仕方」とか「フォールのされ方」な
んてトレーニングはないわけですし。


誰だって、負けて楽しいわけがない。
にもかかわらず、競技を始めた最初の段階でまず取り組むのが
「負け方」。


この時点で、柔道という武道にとって一番大切なのは勝利じゃ
ないんですよっていうのが証明されてると思うのですが、にも
かかわらず、柔道はスポーツの世界に入ることを望み、それが
受け入れられてしまった。


日本の柔道は1本にこだわる、と言われます。
これだって、考えてみればまるでスポーツ的じゃない。
「勝つためにどうするか」を考えるのがスポーツ的な思考だと
すると、日本人の柔道に対する考え方は、いまもって「いかに
して勝つか」という部分が色濃く残っています。


目的と同じぐらい、時には目的よりも過程を重視する武道なら
ではの思考です。
だから、スポーツ的な思考から編み出された、有効や効果でポ
イントを取ったらあとは逃げ回ってしまえ……というスタイル
がどうもしっくりこない。


一方で、自分たちの国が編み出した競技である以上、勝たなけ
ればいけないという思いもあって、これはもう、完全にスポー
ツ的な思考。


つまりは、21世紀に入ってもなお、武道とスポーツの整理がつ
かず、ちゃんぽん状態のまま放置されてきたのが日本人にとっ
ての柔道だと思います。


先日、スポニチのコラムに「日本人はスポーツをやることによ
って理不尽さへの耐性を獲得しようとしている」と書きました。


スポーツをやっていれば根性がつく。
スポーツをやっていれば実社会に出ても役に立つ。


だから1年生は黙々とグラウンド整備をするし、野球部の少年
たちは礼儀作法を徹底して仕込まれる。


なぜこうなったのか。日本に武道があったから、です。
騒動が発覚後、つるし上げに近い形での記者会見に出席した園
田監督は、記者からの「(体罰をふるうという行為は)あなた
が特殊だったのか。
それとも柔道界では一般的なことだったのか」という問いに対
し、「私以外の人間がやっているのを見たことがないので、私
が特殊だったのでしょう」と答えました。


これって、理不尽さへの耐性がなければできない答、でしょ。
すべての罪を自分一人が引っ被り、回りに迷惑をかけまいとする。
この発想が、欧米では圧倒的に少数派のはず。


長く武道に親しんできた、日本人ならではの考え方。
で、「いくらなんでも女性に手をあげるのはいかんだろ」と思
いつつ、記者会見での潔さには胸を打たれてる自分がいたりも
するわけです(書いてみて気づいたのですが、相手がオトコな
らばやむをえんかなという思いが自分の根っこにはあるようです)。


柔道だろうがなんだろうがおしなべて体罰はけしからん、とい
う声が主流派になりつつあります。
バスケットボールというスポーツで起きた、体罰に起因する自
殺事件と、武道でもあった柔道で起きた騒動が、ほとんど同じ
重さで語られています。


柔道界自らがスポーツたらんと望んだ以上、仕方のないことだ
とはいえ、個人的には釈然としないものも残ります。
日本人が柔道を、あるいは武道を完全なスポーツとしてとらえ
るようになった時、理不尽さへの耐性はまだ残っているのでし
ょうか。
そもそも、そんなもの、必要ないのでしょうか。 


つるし上げの記者会見に出席する。
自分だけが割を食うのは納得がいかんと、体罰をしていた仲間
の名前を列挙する……このままの流れでいくと、そういう日本
人が多数派となる時代になっていくのではないか。それで、
いいのか。 迷ってます。』



上記記述を一読してスポーツと武道との違いを、はっきり識別
して、それから判断なり批判なりすべきことを痛感しました。






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